第14回― 邪馬台国 八女説


横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。この歴史ある福島地区を含む八女市に、邪馬台国が存在していた、そして卑弥呼が八女にいたかもしれないという話を、今や信じる人は少ないでしょうか。
今回は3世紀の倭国(わこく)の女王卑弥呼が都にしていた邪馬台国が八女市に存立していたかもしれない「邪馬台国 八女説」をご紹介していきます。
『八女に眠っている邪馬台国?』 ■市内の古墳が卑弥呼の墓現在八女市、筑後市、広川町との境にある丘陵上に、東西十数キロに約300基の古墳群が分布しており、八女古墳群と呼ばれ、国指定の史跡となっています。この八女古墳群は主に、八女市内の岩戸山古墳・乗場古墳・丸山塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・丸山古墳、広川町と筑後市にまたがる石人山古墳、広川町内の善蔵塚古墳で構成されています。
このうちの八女市内の岩戸山古墳がなんと卑弥呼の墓なのではないか、といわれており、その根拠となったのは以下の類似点3点です。
①岩戸山古墳と卑弥呼の古墳のサイズ

岩戸山古墳は八女市北部に展開する北部九州で最大の前方後円墳になります。その全長は170メートル以上、盛り土で作られた実際の墓の長さは約135メートルにも及びます。3世紀末に中国の歴史書「三国志」に書かれた魏志(ぎし)倭人伝(わじんでん)によると、「卑弥呼の墓は直径百余歩」と記載があり、100メートルから150メートルほどのサイズだったのではないか、という解釈があり、墓の大きさが一致します。
②邪馬台国九州北部説
邪馬台国有力地の一つが北部九州とされており、福岡県を中心に、熊本県の須磨郡などが候補地として挙げられています。その中で、岩戸山古墳はその大きさから九州北部最大の古墳とされ、非常に権力の高い有力者が住んでいたことがうかがえます。周囲の八女古墳群には当時の有力豪族の墓が集中しており、この地に卑弥呼が存在しても何らおかしくはないものと考えられます。

③祭祀(さいし)・石人・石馬(いしじん・せきば)の存在
魏志倭人伝に、「邪馬台国の女王・卑弥呼は鬼道に事え、能く衆を惑わす」という記述が見られます。「鬼」は霊的存在とされ、その内容は、「卑弥呼は霊的・呪術的な儀礼に従事し、その力でうまく人々を統率した」というものです。この文から分かるように卑弥呼は宗教的・祭祀的要素を持っていた人物でした。岩戸山古墳にも宗教的・祭祀的要素を示すと思われる、「石人・石馬」と呼ばれる石でできた埴輪(はにわ)が100体以上発見されています。宗教的・祭祀的要素を示す埴輪が多く出土し、卑弥呼との関連性が指摘されています。
■実際の岩戸山古墳ここまで卑弥呼の墓と岩戸山古墳の類似点をご紹介しましたが、学術的には岩戸山古墳は、6世紀前半にヤマト王権と争った北部九州の大豪族・筑紫君磐井の墓とする説が有力視されています。奈良時代に編さんされた『筑紫国風土記』によると、「筑紫君磐井の墳墓」の記載と大きさなどが合致。世界中にも岩戸山古墳だけに「別区」と呼ばれる、埴輪が多く並べられた43m四方の広場があり、『筑紫国風土記』にも別区を描いた描写が見られました。加えて、最大の特徴である前方後円墳は、古墳の中でも最もランクが高い形と言われ、その地位の高さからも、筑紫君磐井の墓ではないか、と考えられています。
八女市北部に位置する岩戸山古墳がもしかすると、卑弥呼の墓であり、その周辺には邪馬台国があったかもしれない。しかし学術的には、6世紀前半にヤマト王権と争った北部九州の大豪族・筑紫君磐井の墓とする説が最有力であり、邪馬台国であったとする説は推測の域を超えません。ただ類似点もあり、邪馬台国だった説はほんの少しですが可能性は残っており、非常に夢が広がるお話です。
当館から岩戸山歴史文化交流館まで車で約10分の所に位置しています。八女市の地下に眠る古墳を見て、学ぶことができる場所となっていますので、ぜひ足を運んでみてください。
■次回予告
次回は、「八女市」の名前の由来についてご紹介します。





