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第15回― 八女の女神が宿る八女津媛神社

八女市の由来とは――

 横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。今から438年前に福島城の城下町として始まったこの地区は、1896(明治29)年には八女郡へと、そして1954(昭和29)年には現在の八女市へと姿を変えました。約130年もの間使用されてきた「八女」という名称。その名前は一体なにに由来しているのでしょうか。

 今回は八女市の名前の由来にまつわる八女津媛(やめつひめ)神社についてご紹介していきます。

『八女の由来となった八女津媛神社』

■八女津媛神社の由緒

 八女市矢部村の南西部に位置し、「八女」の地名の元である八女津媛という女神をまつっている八女津媛神社は、大きな洞窟の下にひっそりと建立しています。その境内には樹齢推定約600年もある天然記念物の権現杉や、山の木々に囲まれ、まるで八女津媛の姿を隠すかのように静謐(せいひつ)な雰囲気の中でひっそりとたたずんでいます。

 八女津媛は文献上「日本書紀」の中で初めて出現します。大和朝廷時代、景行天皇(第12代天皇、在位;71~130年頃)が八女の地を巡幸した際「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい。あの山にはだれか住んでいるのか」と尋ねたところ、筑後国三潴郡を支配していた水沼の県主(みぬまのあがたぬし)であった猿大海が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことが「日本書紀」に記録されています。そしてこの八女の県一帯を治める女神として、八女津媛を御祭神とする八女津媛神社が719(養老3)年の3月に創建されました。以上の話が「八女」の地名の由来となった、と「日本書紀」に記されています。

■八女津媛とは

 現在八女津媛神社にまつられ、本殿前には石像が建てられている八女津媛ですが、その生い立ちやどういった存在だったのか、いまだ謎に包まれています。伝承などによるとその正体に関する以下の3説が残っているようです。

 1.女神説

 「日本書紀」の中で「常に山中にいる」という記述から、景行天皇が巡幸した際にはすでに八女津媛は亡くなっており、地元の人々から神格化され、女神としてまつられていたとする伝承が残っています。

 2.卑弥呼説

 一部言い伝えでは、八女津媛は弥生から古墳時代の人物とされ、また多くの女性を従えていた女王的存在であった可能性が指摘されているほか、「日本書紀」でも女神と称され、聖なる存在としての性格ももっていた点など、卑弥呼との共通点があり、同一視する見方があります。

 3.田子姫命(たごりひめのみこと)の荒魂説

 「日本書紀」の別記で、日本の古代神話や歴史を記述した「神代巻」によると、天照大神と素戔嗚(すさのお)の誓約で生まれた三柱の女神の1人、田子姫命の荒魂ではないかとする説です。田子姫命の荒々しく顕現する霊である荒魂が八女津媛として巡幸中の景行天皇に前に現れたとされています。この田子姫命は、先述の水沼の県主が水が豊かな宗像大社三宮の一つ、沖津宮にまつったとされ、田子姫命が水沼の県主に神告を行った結果、景行天皇が八女に巡幸した際に水沼の県主が「女神の名前は八女津媛である」と答えた、と考えられています。

 以上3点の説は神話や伝承が根拠であるため、さらに詳しい内容や根拠となるものが乏しいですが、前回の「岩戸山古墳」が卑弥呼の墓であったとする説以上にロマンがあふれる話ではないでしょうか。当館から八女津媛神社までは車で約1時間の所に位置しています。いにしえから続く物語が静かに息づいている八女津媛神社の雰囲気を実際に感じてみてはいかがでしょうか。

■次回予告

 次回は、毎年年末に八女伝統工芸館で行われるすす払いを通じて守り受け継がれる、八女の仏壇についてご紹介します。

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