1. HOME
  2. ブログ
  3. 第19回―厄払いから成長願う人形へ

第19回―厄払いから成長願う人形へ

雛の里・ぼんぼりまつり――

 横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。伝統ある福島の町並みを中心に商屋や家屋にひな人形を飾る「雛の里・八女ぼんぼりまつり」が2月中旬から1か月間行われます。

 今回と次回は、八女でも生産され福島地区で数多く飾られるひな人形と、江戸時代から始まったとされる「箱雛」についてご紹介していきます。

『ひな祭りの歴史』

■ひな人形としての起源

  「ひなの国九州」と呼ばれるほど九州はひな祭りが盛んな地域とされていますが、その始まりは奈良時代に中国から伝わった「上巳(じょうし)の節句」と呼ばれる風習でした。「上巳」とは旧暦3月上旬の巳(み)の日に行う節句行事で、当時の中国では、水辺でみそぎやはらいを行う催し物から派生した、流水に酒盃(しゅはい)を浮かべて歌を詠む「曲水の宴」と呼ばれるものでした。日本では奈良時代から特に宮中で盛んになり、草やわらで作った人形で自分の体をなでて汚れを移し、それを川に流すことで厄払いや邪気払いを行う儀式へと変化していきました。

 平安時代になると現代のおままごとに通じるような遊びが貴族階級の女児の間で流行し始めます。それが「ひいな遊び」と呼ばれるもので、紙でできた小さな人形を使って家庭生活を模した遊びです。「ひいな」という言葉は「小さい」や「愛らしいもの」を意味し、やがて人形を使った遊び全般を指すようになりました。「ひいな遊び」に奈良時代から行われていた「上巳の節句」の慣習が結びついたことによって現在の「ひな祭り」の原形が作られた、とされています。

■現代のひな人形へ

 時代が下り、室町時代になると、現代のひな人形の原型とも言える「立ちびな」が登場。より精巧なひな人形が作られるようになり、家の中で飾る習慣が生まれ、ある種の「お守り」としての意味合いが強くなっていきました。江戸時代になると「上巳の節句」が大衆化され、広く人々に親しまれる行事として定着。5節句の一つ、女の子のための日とする「桃の節句」が正式に制定されました。その姿も変化を遂げ、きらびやかな衣装をまとい始め、当時の江戸幕府8代将軍徳川吉宗(1684-1751)の時代には現代のスタイルに近い「ひな祭り」が確認されています。そこには平和な世の中が続き、社会の中で女性や子どもが一定の役割を担い始め、子育てへの関心が広がっていった状況があったからだと考えられています。

八女市提供

 こうして当時の幕府によって「桃の節句」が制定され、ひな祭りは女子の健やかな成長と幸せを願う日へと変化していきました。人々の間でひな祭りの文化が一気に広がると、当時の日本の大都市ではひな人形を売る「ひな市」がつくられ、豪華な生地で作られたひな人形が高値で取引されるようになりました。一方で、一般庶民にはこうした豪華なひな人形のようなぜいたくは許されていない時代であり、身分相応の人形を作るほかありませんでした。そこで登場するのが八女独自のひな人形「箱雛」です。

■次回予告

 次回は、幕府や役人の目から逃れながら豪華なひな人形を隠し続けた「箱雛」についてご紹介します。

関連記事

おすすめ記事