第3回燈籠人形 ― 280年以上続く不思議な「からくり」の世界へ


当館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。そんな歴史ある八女福島にしかない「燈籠人形芝居」が、今年も秋の夜に命を吹き込みます。
およそ280年続く伝統行事の歴史を、3回に分けてご紹介していきます。
前回は第2回ということで、人形芝居以前の「燈籠」と「人形」との関係性、その不思議な出会いと背景といった「からくり」を紐解いてきました。
今回は、前回予告していたように、八女福島に伝わる「燈籠人形」を構成する最後のピースである「人形浄瑠璃」との関係性や、現在のように芝居として公演されるようになったその「からくり」をご紹介していきます。

15世紀中ごろ、琵琶の伴奏による語りとして生まれた「浄瑠璃」は、琵琶から三味線へと楽器が変わり、「牛若丸と浄瑠璃姫の恋愛物語」という恋物語が民衆から広く人気を集めました。その後、兵庫県西宮の「操り人形芝居」と融合し、「人形浄瑠璃」が誕生しました。江戸時代初期になると、「曽根崎心中」で有名な、人形浄瑠璃および歌舞伎の作者である近松門左衛門や、現在の大阪市で活躍した、浄瑠璃の語り手であった竹本義太夫によって人気が高まり、やがて元禄文化の代表的な芸能へと昇華し、「人形浄瑠璃」は全盛期を迎えました。江戸の文化として定着した「人形浄瑠璃」は、日本美術、とりわけ浮世絵によく描かれていました。
筑後地方では、1781年から1789年の間に書かれた当時の久留米藩を中心とした年代記である「石原家記」の1725(享保10)年9月の条に「浄瑠璃」の記述がみられます。「十三部左りの方茶苑畑歌舞妓芝居あり 哥之助人形芝居也 浄瑠璃森太夫来る 此様成上手初来故入多」と記述があり、「十三部(現久留米市合川町の中)の茶畑に『歌舞伎芝居』の興行があった」という内容のものです。1729(同14)年には、御井町愛宕神前で「操り芝居」をしたとあり、1731(同16)年には長崎から浄瑠璃名人が来たとあるので、当時久留米ではすでに「操り芝居」が盛行していたことが推察されます。
■松延甚左衛門がもたらしたもの今まで動かなかった人形に動きを付けた最重要人物である「松延甚左衛門」がここで登場します。
1733(同18)年、八女市の紺屋町にて福島八幡宮を創建した松延四郎兵衛の子孫として生まれ、21歳で役人の一つであった福島組大庄屋に就任します。しかし1754(宝暦4)年3月20日に久留米藩で新たに発布された人別銀賦課に反発した百姓16万人による大一揆が発生し、約60軒の庄屋(当時の村の首長)が破壊・略奪の目にあいました。その影響を松延甚左衛門も受け、1757(同7)年25歳で大坂(明治5年までの表記)に亡命しました。
松延甚左衛門はそこで義太夫節の初代豊竹駒太夫と出会い、1759(宝暦9)年、道頓堀・豊竹座で「福松藤助」として読本浄瑠璃「宇賀道者源氏鏡/ウガドウジャゲンジノカガミ」を発表し、人形浄瑠璃作者となりました。筆名の「福松」は出身地福島の「福」と本姓「松延」の「松」を組み合わせたもので、「藤助」は俳諧に遊んだ父・管蘭の俳名に由来するものでした。

しかしながら1700年後半になると人形浄瑠璃の人気が陰り、1765(明和2)年には豊竹座が閉座したことから1771(明和8)年当時39歳だった松延甚左衛門は八女福島町に戻り、大坂で会得したからくりの技術を伝えます。当時すでに山鹿から伝えられていた「燈籠」とその技術が融合した結果、燈籠の光に照らされ、三味線や太鼓の音色と歌い手の声などの囃子に合わせて動くからくり人形となったのです。

ちなみに晩年の松延甚左衛門は俳諧の世界に身を投じ、俳人「橘雪庵貫嵐(きつせつあんかんらん)」として多くの俳句や物語を残しました。1790(寛政2)年8月には福島八幡宮近くの平田稲荷そばに梅月庵を建て、1796(同8)年、64歳でこの世を去りました。貫嵐のもたらした上方文化は、この地域の職人の才覚を刺激し、より高度な燈籠人形文化へと進化させていったのです。その彼の影響はとても計り知れないものとなりました。
■まとめ以上3回の掲載を通して、八女福島に伝わる「燈籠人形」の魅力やそのからくりについてお伝えしてきました。「人形」「燈籠」「人形浄瑠璃」の3つの要素がまじりあい誕生した、八女の民間芸能である「八女福島の燈籠人形」。その華やかな文化の背景には、藩の倹約令や大戦による上演の中止という困難もありました。しかし当時の町民らが一体となり、あらゆる問題を乗り越え、1977(昭和52)年には国の重要無形民俗文化財に指定されるまでに至りました。

およそ280年間続く伝統行事として継承されてきた「八女福島の燈籠人形」ですが、現在新たに多くの問題を残しています。少子化による後継者不足、口伝や筆記書きによる継承やその保存方法は満足のいくものではありません。このままこの文化が継承される保証はない一方で、この「燈籠人形」を中心にした「八女福島仏壇」や八女産の竹と和ろうそくと和紙でできた「八女提灯」などの特産品とする八女の地域性を最も表しているのも事実です。当時の福島校区民が紡いできた民衆文化財を後世に継承しなければならない。その一助として、この連載がお役に立てれば幸いです。
■次回予告次回は範囲を拡大して、八女福島町の成立についてその歴史をご紹介していきます。(週一更新)
〇参考文献
・八女福島の燈籠人形保存会(2009)『八女福島の燈籠人形 復元・修理事業報告』