第32回― 大杣公園に眠る良成親王

南朝再興を目指した親王をしのぶ陵墓

「画像提供:八女市」
横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。。この地区から30キロ以上離れた、大分県境の近くの山あいに、南北朝時代の動乱を生きた1人の親王の記憶が、陵墓の中に大切に守られています。この地に眠っているのが、南朝の将軍として九州を支えた良成親王です。
今回は八女市矢部村で語り継がれている親王の足跡と、現在も地域の人々がその御霊(みたま)をしのび続ける「大杣(おおそま)公園祭」についてご紹介します。
『動乱の歴史を次世代につなげる』
■南朝の皇子がたどり着いた八女の地
八女市矢部村に位置する良成親王陵墓は、四方を深い山々に包まれた静かな場所にあります。1336(南朝:延元元、北朝:建武3)年から1392(南朝:元中9,北朝:明徳3)年まで続いた南北朝時代の争乱の中、良成親王は、後醍醐天皇擁する南朝の将軍として九州各地を転戦。やがて八女の地に移り、その生涯を閉じたと伝えられています。
良成親王は、南朝2代天皇の後村上天皇の皇子で、1367(南朝:正平22)年当時わずか5~6歳で、叔父で九州を制覇した征西将軍の懐良(かねなが/かねよし)親王の居留守役として太宰府へ派遣されました。その8年後の1375(南朝:天授元)年良成が14歳の頃、懐良親王から将軍職を継ぎ、後征西将軍として足利尊氏擁する北朝側の軍勢と戦いを繰り広げました。
しかし南朝の勢いむなしく、1392年に南北朝は合一し、南朝政権は終わりを迎えました。良成親王はその後も南朝復興を目指して九州各地で戦いを続け、八女の山中にまで逃げ込み、大杣を拠点に活動を続けていました。その後1395(応永2)年頃良成親王は35歳前後で亡くなり、この地に葬られました。
この地での活動にまつわる伝承も残っており、例えば黒木町の素盞嗚(すさのお)神社に大藤を、良成親王が戦勝祈願や滞在の記念に植えたとされています(黒木の大藤は、3月27日に紹介していますので、そちらもぜひご一読ください)。なお、陵墓周辺の「御側(おそば)」という地名は、親王の「おそば」に仕えた人々が、良成親王の死後に住んでいたことに由来するといわれています。
■受け継がれる鎮魂と感謝
毎年、良成親王の命日にあたる10月8日には、この地で良成親王をしのぶ祭りが行われています。祭りでは、地元の保存会による公卿唄(くげうた)や、4人の巫女(みこ)による「浦安の舞」を奉納し、良成親王の御霊を慰めています。

そこで交わされる祈りには、この山中で静かに生涯を終えた1人の皇子への深い敬意が込められています。戦乱の中で志を貫きながらも、かなわなかった南朝再興という願いに思いを重ね、その無念に寄り添う気持ちが、長い年月をかけて受け継がれていきました。
「画像提供:八女市」
また良成親王は、歴史上の人物でありながら、この土地に縁を持つ存在として、身近に感じられている面もあります。この祭りは、そうした思いを改めて確かめ合い、良成親王に関する詳細な記録が残っていないからこそ、その記憶を次の世代へと静かにつないでいく大切な場となっているのです。

良成親王陵墓や大杣公園は当館から車で約1時間の場所に位置しています。小高い丘に築かれた陵墓は、決して大きくはありませんが、そのたたずまいには、動乱の時代を生き抜いた皇子の静かな誇りが漂っています。秋の行楽シーズンに八女を訪れた際は、ぜひその深い歴史の余韻を感じに足を運び、祭りのひとときを楽しんでみてはいかがでしょう。
「画像提供:八女市」
■次回予告
次回は、八女市黒木町に鎮座している津江神社についてご紹介します。





