第23回― 八女茶の名付け親


横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。ここ八女市の名産品の一つで、600年以上の歴史がある「八女茶」ですが、その名称が名付けられたのは約100年前だったことをご存じでしょうか。
今回は許斐久吉が複数の産茶を統合し、「八女茶」と名付けた経緯についてご紹介します。
『八女茶ブランドが生まれたいきさつ』 ■矢部屋とお茶の歩み「矢部屋許斐本家」は八女市福島地区で、お茶の品質評価や仕上げ製造、産地問屋としての一般流通を担う茶商を営んでおり、創業は1704~1710年(宝永年間)と、九州で最も古いお茶の問屋です。しかし当初は福島地区ではなく、現在の八女市矢部村の山間部で、その近辺で採れるキノコや和紙の原料であるコウゾ、木材などを扱う山物産問屋「矢部屋」として初代・許斐甚四郎が始めました。当時からお茶を扱っていましたが、数ある商品の中の一つだったようです。その背景に、江戸幕府3代将軍・徳川家光が出したといわれている「慶安の御触書」により、お茶はぜいたく品と戒められ、特に農村部でのお茶の需要が少なかったからと考えられます。

1856(安政3)年になると、長崎県の出島でアメリカへのお茶の直接取引が始まり、八女のお茶が貿易品として注目を集め、需要が急激に加速しました。その後「矢部屋」は1855~1860年(安政年間)にお茶を専業とする商屋となり、1865(慶応元)年には8代目・許斐寅五郎が、福島地区に現在の店を構えました。これで地方でもお茶専門の問屋ができる時代になりましたが、その勢いは長くは続きませんでした。
■「八女茶」の登場1859(安政6)年になると、江戸幕府は貿易港を増やし、お茶の輸出量を拡大していきました。しかし当時のお茶の製造は、現代のように発達しておらず、山に茶の木を植えるだけで、自然に育ったお茶の葉を採取する形で行っていました。年々高まるお茶の需要に間に合わせるあまり、十分な乾燥ができず色や香りが悪いお茶を輸出してしまい、アメリカ国内で大きな問題となりました。

1883(明治16)年にはついにアメリカで「贋茶(粗悪茶輸入)禁止条例」が出され、海外でのお茶の評判は急激に低下しました。そこで危機感を抱いた9代目・許斐久吉は、国内でのお茶の販路拡大を目指します。当時名称や品質も産地でバラバラだったお茶のブランド化を推進。技術面では八女の気候風土に玉露が適することを見いだし、流通の面では「星野茶」「黒木茶」など細かい地域名を「八女茶」に一本化し、特産化を進めました。
しかし地元生産者の声をまとめることは非常に困難で、その意志は10代目・許斐久吉(2代目久吉)に受け継がれ、「八女茶」として名称と品質が固まったのは1925(大正14)年のことでした。その年福島地区で開かれた物産共進会・茶の品評会の部で、「八女茶」の名称と特産化を提案し、満場一致で可決されました。現在では全国上位の生産量を誇り、玉露が農林水産大臣賞を受賞するなど、福岡県を代表する名産品の一つとして全国に知られています。
矢部屋許斐本家は当館から徒歩ですぐの所にあります。江戸時代から続く焙炉(ほいろ)と呼ばれる方法で焙煎された甘くてコクのある八女茶など数多くの商品を販売しています。また、2017(平成29)年に八女市の有形文化財に指定された趣ある店構えも楽しめます。ぜひ足を運んでみてください。

来週は「春の八女どんたく2026」が開催されます。





