第34回― 自らを犠牲にして国を救った男


横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。八女市の東側、上陽町の北川内公園に建てられている石碑。そこには祖国から遠く離れた異国の地で奴隷となる道を選んだある男の功績がたたえられています。
今回は自らの命を差し出して日本を守ったといわれる筑後の英雄、大伴部博麻(おおともべはかま)にまつわる伝説をご紹介します。
『祖国を思い続けた1人の兵士』 ■大伴部博麻が歩んだ生涯大伴部博麻は、現在の八女市上陽町出身で、飛鳥時代に生きた人物です。当時は特別身分が高かったわけではなく、1人の兵士として663(天智2)年に起こった白村江の戦いに派遣されました。日本と朝鮮の百済(くだら)の連合軍は、唐・新羅(しらぎ)の連合軍と戦いますが、大きな敗北を喫し、多くの日本人が唐の捕虜となります。博麻もその中の1人であり、遠く唐の都、長安に連行されました。 衣食が十分に提供されない厳しい環境の中でも、博麻は祖国への思いを捨てることはありませんでした。同じ境遇の仲間を見つけ、共に支え合いながら日々を生き抜き、いつか日本へ帰る、と願い続けたといわれています。やがて長い年月が流れ、白村江の戦いから約30年後の690(持統4)年9月23日に博麻は白髪をなびかせて帰国を果たしました。

その翌月の10月22日、捕虜生活時のとある行動への功績が朝廷に認められ、持統天皇から位や褒美が与えられました。その他「尊朝愛国」「売身輸忠」というおことばも賜り、日本史上で初めて「愛国」という言葉が生まれた、と日本書紀にも記されています。
1863(文久3)年には上陽町には博麻の功績をたたえる石碑が建立され、以来郷土の誇りとしてその生涯は語り継がれています。
■いのちをささげ、星野川に刻んだ決意670(天智9)年、捕虜として長安にいた頃の決断が博麻の運命を分けたのです。博麻はそこで、唐の日本侵攻計画を耳にします。しかし捕虜という立場では何もできず、日本の危機を伝えることができません。そこで博麻は、自分の人生を差し出す覚悟を決めました。
博麻は、自分自身を奴隷として売り、その代金で捕虜生活中に出会った4人の帰国資金としたのです。その後671(天智10)年に4人の仲間は対馬に到着。朝廷に唐の侵攻計画を伝えた後、朝廷は急ぎ国防の万全を図り、大きな国難を未然に防ぐことができました。その後帰国を果たした博麻は、持統天皇から褒美やおことばを賜りました。
上陽町にはさらに一つの伝説が残されています。それは、博麻が晩年、北川内公園の下を流れる星野川の深い淵に立ち、自らが身につけていた軍袴(ぐんこ)を沈めた、という話です。これは病に倒れ、訓練ができなくなった博麻が、戦いの記憶を断ち切り、自らの役目に区切りを付ける行いだったと考えられます。

この出来事から、その場所は「博麻のふち」と呼ばれるようになりました。自分の身がどうなろうとも、祖国である日本を思う強い博麻の気持ちと行動は「愛国」という言葉だけでは語りきれないでしょう。間違いなく筑後、いや日本の英雄です。博麻の石碑がある北川内公園は当館から車で20分ほどの場所に位置しています。博麻にまつわる史実と伝説が重なり合いながら、今も博麻の生き方が語り継がれている様子を感じに、ぜひ訪れてみては。
■次回予告次回は八女市星野村にひっそりと残る一つの塚とその下に見つかった唐の鏡についてご紹介します。





