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第24回― 動物の名を冠する城たち

城の名前が表す関係性とは――
「画像提供:八女市」

 横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。この地区から東に6キロほど離れた位置に犬尾城、さらにそこから10キロほど離れた場所には猫尾城と、なんともチャーミングな名前の城跡が残っています。しかしこのかわいらしい名前の裏には、当時それぞれの城主だった黒木氏と河崎氏との確執が背景にあったと考えられています。

 今回は犬尾城・猫尾城についてご紹介します。

『対立の証しだった猫尾城と犬尾城』

■二城のそれぞれの歴史

  猫尾城(別名:黒木城)は1167(仁安2)年に、筑後の有力武士であった黒木大蔵大輔源助能(みなもとのすけよし)が、標高240メートルの山頂に築いたとされ、南北56メートル、東西28メートルの広さがあった山城と考えられています。この源助能は、2月20日でも紹介した室山熊野神社を建てた胤実(たねざね)と親交があった人物です。  築城当時、城主は源助能でしたが次第に黒木一族の居城となっていきました。しかし1584(天正12)年に、豊後を中心に強固な政権を築いていた大友氏の軍勢に攻められ、一時は猫尾城にこもり交戦したものの、大友氏の名将・立花道雪と高橋紹運らによって落城。黒木氏はここで滅亡したといわれています。さらに、9月26日で紹介した、田中吉政が「関ヶ原の戦い」で石田三成を捕らえた褒美として1601(慶長6)年柳川城に入城した際、家臣の辻勘兵衛が猫尾城の管理者となりました。しかし1615(元和元)年に江戸幕府が発布した一国一城令によって廃城になりました。

 「画像提供:八女市」

 一方で、犬尾城(別名:河崎城)は1191(建久2)年に源助能と正室の春日局(かすがのつぼね)の子、河崎三郎定宗によって標高180メートルの山頂に築かれ、城の規模は南北32メートル、東西9メートルとされています。1月9日に紹介した徐福伝説が残る童男山古墳から、山道を徒歩で20分ほど登った位置にあります。犬尾城も築城当時は河崎三郎定宗が城主となり、河崎一族の居城となりました。しかしながら1579(天正8)年に肥前の大名であった龍造寺隆信に攻められ落城。その後修築されますが、1587(天正15)年の豊臣秀吉の九州征伐で敗れ、廃城となりました。

■黒木氏と河崎氏との対立

  黒木氏が居城にした猫尾城の名前の由来ですが、猫尾城を建てた山が「猫が寝そべった姿」に見えるため「猫山」と呼ばれていたことから、猫尾城の名前が付けられた、といわれています。一方で、河崎氏の居城であった犬尾城の名前に黒木氏と河崎氏との対立が隠されていました。

 築城当時、猫尾城の城主だった源助能は、正室の春日局とその子どもの3人で暮らしていましたが、天皇の警護役として京都に滞在中、横笛の演奏が天皇に認められ、女流歌人である待宵の小侍従が与えられました。しかし小侍従は別の恋人との子どもがおり、源助能は筑後に帰った後、天皇から与えられた小侍従の子どもという理由で、この子どもに猫尾城を継がせたのです。正室の春日局はこの出来事をきっかけに矢部川に入水自殺したと伝えられています。

 その後春日局の子どもは本家を離れ、河崎三郎定宗と名乗り、犬尾城を建築。その際「自分こそが本家であり、『猫尾城』に抵抗するために『犬尾城』と名付けた」と考えられています。しかしこれらの確実な史料はなく、あくまでも伝承の一つです。

「画像提供:八女市」

 当館から犬尾城跡は車で15分ほど、猫尾城跡は25分ほどの場所に位置しています。犬尾城跡は城跡公園となっており、当時の土塁や堀を見ることができます。1983(昭和58)年に県指定史跡となった猫尾城跡は、現在城山公園として整備され、当時の本丸の石垣が残るほか山頂からは筑後地方を一望することもできます。春になると桜など多くの花が咲く名所にもなり、暖かくなってくるこの時期にぜひ足を運んでみてください。

■次回予告

 次回は平安時代最強の陰陽師(おんみょうじ)であった安倍晴明と八女との結びつきについてご紹介します。

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