第29回― 八女地域を命がけで救った中島内蔵助


横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。江戸時代に星野川から八女地域に水を引くかんがい工事に、自らの命をささげた人物がいたことをご存じでしょうか。その人物が当時八女市吉田で庄屋だった中島内蔵助(なかしまくらのすけ)です。
今回は八女市山内にある「山の井堰(せき)」を建設するためにその命をささげた中島内蔵助をご紹介します。
『中島内蔵助をたたえた顕彰碑』 ■農地改良の命を受けたかんがい工事八女市福島地区から黒木方面に向かう道中に位置している山内地区は、星野川がそばを流れるのどかな町です。そしてそのそばを流れる星野川の水をせき止め、現在田畑が広がる八女市吉田地区まで水路を引く役割を担っているのが、星野川上流に設けられている「山の井堰(せき)」です。
しかし江戸時代当時、吉田地区には川は流れておらず、農作物の生育が期待できない痩せた土地でした。そこでこの地域一帯を治めていた久留米藩から「地域一帯の田畑を改良せよ」という命令が下りました。それが1642(寛永19)年の事でした。そのために水源が必要でしたが、近くに川は流れていないため、6キロほど離れた、山内地区に流れる星野川上流の水をせき止めて水を引いてくることになりました。
そこで吉田地区の住民総出での堰造りが始まりました。吉田地区に水を通す溝を掘る一方、堰の土台作りのために星野川の腰までの高さに流れる逆流に逆らいながらくいを打ち、そこに土のうを積み上げることで、一度は堰を完成させます。しかしそこで思わぬ大雨が襲い、一夜にして堰は破壊され、振り出しに戻るという災難に見舞われました。
■自ら犠牲となった中島内蔵助の決断堰が破壊され、再建の士気をなくした住民たちのもとに当時工事の陣頭指揮を執っていた中島内蔵助が訪れます。そこで中島はこう告げたといわれています。それは「昨日水神様が夢の中に現れた。大昔に神様がつくった沼を埋めた事に怒っている。それに川を曲げて別の川に水を流すとは不届き千万。自然に背いて水流を変えるなら、それなりの代償、人柱を立てろ」と。そこで「誰が人柱になるのか」と訪ねた住民に「明日の工事の際、履いている草履の結び目が左結びになっている者」と返したそうです。周囲の住民を中島の言葉を聞き、恐れをなしてそれぞれ帰路についたといわれています。
翌日、中島の言葉を聞いた者は全員右結びでやってきますが、唯一左結びの草履を履いた人物がやってきます。それが中島内蔵助でした。最初から犠牲になるつもりでいたとされ、1652(承応元)年、自ら進んで人柱となり、川の濁流に身を投げました。堰が完成しなければ住民らが藩に処刑されるからこその決断があったと考えられます。その後住民たちはやる気を取り戻し、急ピッチで工事に取りかかりました。こうして以前とは比べものにならないほどの頑丈な堰が完成し、堰から流れる水路は山ノ井川として、八女地域のひよくな土壌を作り上げました。
現在「山の井堰」からつながる水路は、八女市だけではなく筑後市など星野川の下流域を潤し、周辺の住民らは毎年、吉田地区にある中島内蔵助顕彰碑の前で感謝を示す感謝祭も行われています。急流をせき止めた先人の知恵や苦労に思いをめぐらせながら散歩し、当館で八女茶を飲んで一息ついてみてはいかがでしょうか。

次回は同じく山内地区で「水の神様」として祭られてきた山内水天宮についてご紹介します。





