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第54回― 南北朝の記憶を現在に伝える五條氏邸

五條家にまつわる重要な史料残る――
「八女市提供」

 横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。八女市内には数多くの商人の町として栄えた当時の姿を今に伝える建物が数多くあります。中でも目を引くのが、黒木町にある「五條氏邸」です。今から600年以上前の南北朝時代から天皇や皇子に仕え続けた公家・五條家の歴史や戦乱を生き抜いた足跡を今に残しています。

 今回は八女の地で忠節を尽くした五條家とその邸宅である「五條氏邸」についてご紹介します。

『今なお八女で良成親王を守り続ける』

■主君に忠誠を誓った家臣

 時は14世紀の南北朝時代、鎌倉幕府を倒し、今の奈良県南部に南朝を開いた後醍醐天皇。京都に開かれた北朝に抵抗するため、自分の皇子たちを北陸や奥州に送り込み、各地の平定を試みました。中でも10歳に満たない少年だった懐良親王を征西将軍として九州に送り込みます。その際に征西将軍陣営を支えてくれる人物として側近であった清原頼元(後の五條家)を随従させることにします。

「八女市提供」

 ここから五條家は5代にわたって征西将軍の懐良親王と後征西将軍の良成親王を支え、南朝の九州平定を目指し続けます。1359(正平14)年頃の筑後川の合戦(今の福岡県小郡市)では北朝軍6万人を南朝軍8000人で破ったとされ、良成親王が陣を構えた場所が「宮の陣」、南朝の親玉・菊池武光が血に染まった刀を川で洗った場所が「大刀洗」の地名の由来になったと伝えられています。1361(正平16)年には大宰(だざい)府に征西将軍府を設置し、九州北部の支配を手中に収めています。中でも、懐良親王が「日本国王」として明(みん)国との外交に臨む際も頼元が、豊かな学識を披露し文人官僚として大きな力を発揮したと伝えられています。

 1392(元中9)年に南北朝の合一後も、良成親王らは八女の大杣を拠点に活動を続けますが、1395(応永2)年頃に良成親王は35歳前後で亡くなります。その後五條氏は15世紀以降、豊後大友家に属し武将として名を上げ、矢部一帯を領地として治めます。1587(天正15)年には豊臣秀吉の九州平定の際、矢部の領地を没収され、豊後の玖珠に移り、のちの加藤清正に仕え、肥後八代へ転住。この頃には五條氏は14代までに発展し、清正の死後八代を去り、1626(寛永3)年に八女へ戻り、以降柳河藩立花宗茂に仕えました。

■年に一度のみ明かされる重要文化財

 現在黒木にある五條氏邸は、1751(宝暦元)年に建てられたとされています。木々に隠れ、ひっそりとたたずむ邸宅ですが、その中には五條家に古くから伝わる文書やふすま絵など当時の歴史を解き明かすさまざまな史料が残っています。

・金烏(きんう)の御旗(国指定重要文化財)

 後醍醐天皇から賜ったとされる御旗です。「金烏」は太陽を意味し、日の丸のシンボルデザイン案の一つでもありました。懐良親王は、10歳で九州に向かう際、この旗を持って行ったといわれています。瀬戸内海を通り鹿児島から九州入りする時にはすでに成人し、13年経過していたとされています。この旗には、天皇の勅命を受けた軍隊であることを示し、また道中や九州平定時の戦での士気を上げる役割もありました。

・五條家文書(国指定重要文化財)  五條家には、鎌倉時代から戦国時代に掛けての書状が全369通、17巻残されています。中には後醍醐天皇が崩御される前日に書かれた命令書である綸旨(りんし)や良成親王が書いたとされる文書、柳河藩の立花宗茂から矢部一帯を治める旨の手紙など、当時を知る上で極めて重要な書状が含まれています。

「八女市提供」

 五條氏邸は当館から車で30分ほどの場所に位置しています。現在も黒木町には五條氏の子孫が残り、大杣公園内にある良成親王の陵墓を守部として守り続けています。また、毎年秋分の日には五條氏邸が一般公開され、今回ご紹介した史料の他に、良成親王が着用していた胴具や筑後川の合戦を描いたふすま絵などを見学することができます。今年はもう終わりましたが、来年の秋分の日にぜひ足を運び、その目でお確かめください。

■次回予告

 次回は八女市に広がるパワースポットの一つ、松尾弁財天についてご紹介します。

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