第43回― 日中親善に努めた政治家・大内暢三


横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。八女市の北東部、現在の立花町白木地区に生まれた1人の人物が、日本の政治や国際交流、そして教育の発展に大きな足跡を残しました。その人物こそ、大内暢三(おおうちちょうぞう)です。
今回は白木の地から世界へ羽ばたき、平和を希求し続けた政治家・大内暢三と、ゆかりのある遺産をご紹介します。
『ふるさと八女から世界へ』 ■国政や日中友好に励み大内暢三は1874(明治7)年に、当時八女郡白木村で初代村長を務めた大内家に生まれました。幼い頃から柳川や熊本で学問に励み、東京専門学校(現在の早稲田大学)で政治学を学びます。その後アメリカへと渡り、コロンビア大学で政治学や憲法学を修め、法学修士の学位を取得。勉学で海外に留学することが珍しかった当時、暢三は世界に目を向けた先進的な人物でした。

1908(明治41)年35歳のころに衆議院議員として初当選した暢三は、以後5回にわたり国政の場で活動しました。1930(昭和5)年まで国会議員として立ち続け、日中・日韓友好親善、東アジアの復興繁栄にも尽力。1925(大正14)年には、後の内閣総理大臣の犬養毅とともに、普通選挙法の実現にも貢献しました。
政治家として活躍する一方、文化や教育の振興にも力を注ぎ、上海に設立された中国・アジアで活躍できる日本人の人材育成を目指した東亜同文書院では院長、さらに同院大学の初代学長を務め、数多くの若者の育成も手がけました。
1930年代に上海で2度、日中両軍が衝突し戦闘が広がった上海事変では、暢三は一貫して戦争拡大反対の方針を採り、日中友好を説き続けました。国際関係が緊張する時代の中で、対話と理解の重要性を信じ続けたと伝えられています。その後1944(昭和19)年12月31日に、享年71歳で逝去しました。
■大内暢三ゆかりの遺産たち八女市には、暢三がたどった足跡を伝える場所が今も残されています。

・白城の里 旧大内邸
立花町白木に残る大内暢三の生家です。明治時代の庄屋屋敷の面影を残す建物で、現在は八女市の文化財に指定されています。広々とした屋敷や庭園からは、当時の白木地域の豊かな暮らしぶりを感じることができ、暢三の生涯や功績を紹介する展示も行われています。
・大内暢三の顕彰展示
旧大内邸では、暢三の当時の政治活動や国際交流への取り組みを紹介する資料が保存・展示されています。海外留学や政治活動に関する記録からは、ふるさとである八女を原点として世界へ飛び立った航路を学ぶことができます。
・風呂水の哲学の碑

哲学の碑は、1990年に暢三をしのんで建てられた石碑です。暢三は「風呂の中に入ってお湯を自分の方にかき寄せれば湯は自分に当たって向こうに行ってしまう。反対に向こう側に押せば向こうにぶつかってこちらの方に返ってくる。これが天地自然の理法で人間だけができることで、それが仁であり義である」と二宮尊徳が説いた哲学を、生涯の言葉として政治活動に励んでいました。その言葉のように、人間関係の中で何かを期待するのではなく、自分から与えたことで、日本とアジアとの友好親善の架け橋になったのではないでしょうか。

旧大内邸は当館から車で15分の場所に位置しています。一時は廃屋寸前であった生家を保存会が保存活動に取り組みました。今では、屋敷の周りを取り囲む四季折々の自然と、平日はカフェでお菓子やドリンクが、土・日曜日、祝日には地元の食材を使ったランチ「里山御膳」(要予約)が楽しめます。ぜひ足を運んで大内暢三が歩んだその生涯や八女で採れる旬の素材を使った食事を味わってみては。
■次回予告次回は原爆で焦土と化した広島から持ち帰り、今も燃えている「平和の火」をご紹介します。





