1. HOME
  2. ブログ
  3. 第44回― 原爆の火をともし続ける平和の塔

第44回― 原爆の火をともし続ける平和の塔

広島から81年間受け継がれた思い――
「画像提供:八女市」

 横町町家交流館のある八女福島地区は、江戸時代からの白壁の町並みが残る「伝統的建造物群保存地区」です。この地域から東に約30キロ進んだ星野村には、81年前から燃え続けている火があります。それが1945(昭和20)年8月6日に広島に投下された原爆で街を焼き尽くした火です。

 今回は8月15日の終戦の日を前に、今も原爆の残り火をともし続ける「平和の塔」についてご紹介します。

『星野村でつながる山本氏の祈り』

■23年間守り続けた形見

  「平和の塔」は、1995(平成7)年3月に八女市星野村の「星野ふるさと公園」内に建てられました。二等辺三角形の形をし、塔の最も高い位置である頂点に「平和の火」がともされています。また、塔の隣には、平和学習の一環として長崎市立式見中の学生らが種から育てた苗木「被爆クスノキ2世」と、広島市から「被爆アオギリ2世」がそれぞれ寄贈され、平和のシンボルとして大切に育てられています。

「画像提供:八女市」

 塔の中で燃え続けている「平和の火」は、星野村で生まれ育った山本達雄氏によって広島から持ち運ばれました。1945年当時、山本氏は、星野村から出征し、陸軍の兵士として広島県豊田郡大乗村(現在の竹原市)で任務に就いていました。8月6日広島市内に設置されていた軍司令部に向かうため、汽車に乗っていた山本氏は、午前8時15分被爆。幸いにも原爆の被害を免れますが、爆心地である広島市内には金正堂書店を営み、父親代わりに育ててくれた叔父がいました。叔父の安否を思い、目を覆ってしまうほどの負傷者と死体の山を探しますが、見つけることはできなかったそうです。

 8月15日に第2次世界大戦が終結した後、星野村へ戻る直前の9月16日でした。山本氏は最後の別れとして金正堂書店の焼け跡を訪れました。その地下壕(ごう)でくすぶる火を見つけます。そこで山本氏は叔父の形見として、持っていたカイロに移し、星野村に持ち帰りました。以降、叔父や多くの尊い命を奪った「忌みの火」そして原爆犠牲者への「供養の火」として23年間、山本家によって守り続けられました。

■復讐や恨みから平和への願いへ

 星野村に持ち帰った当初、原爆の火は復讐(ふくしゅう)や恨みを込めた「忌みの火」として保存されていました。その火を見るたびに山本氏は、原爆や戦争に対する無念や憤り、その目で見た広島の惨状を思い出します。しかし「報復では永久に平和は来ない」と考えを改め、原爆投下から23年後の1968(昭和43)年8月6日に原爆の火を星野村役場に提供。以後、平和の象徴として役場に建てられた平和の塔に保存されていました。

「画像提供:八女市」

 星野村では平和の火を受け継いで以降、毎年平和祈念式典が開催されています。1995年には「星野ふるさと公園」内に、平和の塔と福岡県原爆被害者団体協議会の「原爆死没者慰霊の碑」が一体化したモニュメントが建てられ、原爆の火が移されました。今年も8月6日に式典が行われ、市内の小・中学生など多くの人から非核・恒久平和への祈りを込めた千羽鶴が献呈されました。

「画像提供:八女市」

 当館から「星野ふるさと公園」までは車で35分ほどの位置にあります。当時の記憶を語り継ぎ、「二度と戦争を起こさない」という願いが込められた平和の火。現在は全国17カ所に分火され、各地で込められた願いと共に燃え続けていますが、私たち一人一人の心の中にもともすことで、平和への思いはつながっていくのではないでしょうか。ぜひ8月15日を前に、足を運んで、なぜ八女市に原爆の火があるのか、そしてともし続けてきた火への思いを感じてみてはいかがでしょうか。

■次回予告

 次回は縁結びにご利益があるとされる、上陽町の滝の宮不動尊についてご紹介します。

関連記事

おすすめ記事